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 ○結果待ち
 
  全員が滑走を終わらないと正式発表にならないためあと 10人くらいの選手が終わるのを待たなければならなかった。
  じっとしていると上半身は凍えそうになってくるので、ゴールをした後のために用意しておいたアウタージャケットに手を通して、
  後30分くらい時間をつぶせるところを探して見回してみた。


  雪のかからないところはみなレース直後の興奮した選手と、応援に駆けつけた仲間でごった返していたのだ。
  村営の休憩所や食堂はこの雪の状態を考えると、満杯だろうし、スキーサービスのテントも同じ事だろう。
  まだまだ雪は降り続いていたので、駐車場の隅にある屋根のあるところを見つけた。


  そこはコンクリートのかまどが作られていて、夏になると飯ごう炊飯でもやるのだろう。
  綺麗にかたづけられているが、すすけた材木や炭がブルーシートに覆われて冬の寒さをじっと耐えているようだった。
  しかしそこも、ほかの選手の荷物で占領されていて、自分の荷物を置く場がなかった。


  そこまでスケーティングで移動してきたが、戻る以外なさそうだなと考え、リフト乗り場まで戻ってきた。
  じっとしているよりも動いているほうがいいし、スタート地点に残した、移動用のスキーとスキーウエアーをとりに行くことを思い出したので、
  いったん外したスキーを履きなおして、リフト乗り場の列に並んで、頂上に向かった。


  もうレースは終わったので、レース用の板で移動することも躊躇せずに出来るのだ。
  雪はすでにやんでいたが、リフトに乗ろうとするときには、係りのおじさんが、柄の短いほうきで、リフトの搬器の上をたたくように雪を
   払ってくれるのだ。
  ポンとたたくと搬器の上に乗っかっている雪が綺麗に飛散り、雪の上に座って冷たい思いをしなくてすむのだが、
  しかし心配なのは、途中通過するときに滑車から落ちる油で、ずいぶん改良はしているのだろうが、雪が降った後は、水滴とともに、
   肩に油が落ちる。


  リフトから落ちた油汚れが、どんなに「良く落ちる。」と深夜のテレビショッピングで驚きの威力を発揮する洗剤で洗濯しても、
  クリーニングの染み抜きをしても落ちないのだ。
  だから雪の日のリフトに乗る時は心配だし、新しいウエアーのときは注意が必要になるのだ。


  私の今来ているダウンヒルスーツも、フィラというイタリアのウエアーメーカーで作ってもらったもので、体にあわせてオーダーしたものだ。
  何しろ 1 着 8万円から9万円以上するものだからほんのちょっとのことでも心配になってしまう。
  なけなしのアルバイト代がつぎ込まれているのだ。


  更に今年の色は、白ベースにスカイブルーのグラデーションになっていて、汚れが目立つのである。
  ちょっとでも油のクロや茶色のしみが出来たら泣くに泣けないのだ。
  全日本の選手にでもなれば、メーカーから、指定の用品や、ウエアーなどが支給され、毎年2着くらいは自由になるのでこんな心配はしなくても
  いいのかもしれないが、まだ私は代表選手にもなれない下っ端であるので、全部自分のものである。


  しかし今日の成績如何では、ウエアーを支給してもらえる可能性が出てきたかもしれないのだが・・・。
  まだ雪が解ける温度まで暖かくなっていなかったので、雪解けの油攻撃はなんとか免れ、ほっとしながら頂上の降り場からコースへ
   滑り出すのだった。
  スタート地点に着くと、各県の代表選手が、自分の移動用のスキーやジャケットのかたずけをしていた。


  恵まれた選手は、サポーターと呼ばれる仲間が、滑ったすぐ後からスキーやウエアーなどを運び、もう2度とスタート地点には戻ってこないのだが、
  様々な世代が滑走する国体のレースになるとサポートについてきてくれる仲間のいない選手も多く、
  自分でなんでもするため、片付けている選手も相当いたのだ。


  端の大きな木の下に置いた荷物の横に近づいてレース用のスキーを脱ぎ、移動用のスキーに履き替え、
  ダウンヒルスーツの上に先ほど脱いだウエアーを着て、今下から着てきたアウタージャケットをザックの中にしまいこんで、後3人のレースを
   上から見ていた。
  最後の選手は、私と同じ学校の選手で、福島県の猪苗代に住んでいるスキー操作の上手な選手だが、学部が違うのと、
  東北ブロックと関東ブロックでまったく面識がなく代表選手になって初めて知った選手だった。


  小さな目がらんらんと輝いていて、闘志剥き出しの滑走をする選手だった。
  このあと 10年後にデモンストレーター選考会でまた会う事になるのだが・・・・ 全員が滑走を終えたので、コースが開放され、
  全面滑走が出来るようにコースの外側に張ったセパレーターの網が巻き取られ始めた。


  スキー学校の同じユニフォームを着た役員たちが手際よく、赤・青のフラッグがついたポールを抜き始めていた。
  私も自分のスキーやヘルメットの片付けが終わり、役員と同じように横滑りを多用しながら、歴戦の後を踏みしめながら下り始めていた。
  60歳から18歳までの男子大回転で、全員が滑った後を足元に感じながら下りてゆくと、さすがに200人の滑走はすさまじいものがある。


  蛇がのたくったように深い溝が刻まれ、大きな雪の塊が弾き飛ばされていた。
  溝の外側には、雪がうずたかく積み上げられているのだ。
  旗門になっている赤・青のポールは可倒式ポールと言って、雪に埋まっているゴムの部分がスクリュウのようにねじが切ってあって、
  50cm位雪のなかにねじ込まれているのだ。


  下のゴム部分と上のポール部のちょうつがいには、金属のバネが埋めこまれていて、衝撃で倒れてもまた立ち上がるように出来ており、
  下のねじの部分で、衝撃が与えられても飛びぬけないように出来ている。
  選手が滑った後のコースの深く掘れた場所では、ポールの下の部分が雪が削られて見えていたくらいだ。


  途中バランスを崩した場所を通過するときには、悔しい気持ちで、積み上げられた雪の塊を踏み潰していた。
  頭の中で、「もっと内側を通過すればよかったかな。」と思い出していたのだ。
  ゴール地点まで戻ってくると先ほど話した寿子先輩が掲示板のところで、私を待っていてくれた。


  「あまりおせはんで、いぬるべとしてただ。」
  「すいません。かたづけに手間取っていたんで、全員の順位は出ていますか?」
  「こっちだよ」
  「何番になっていましたか?」
  「出口君に抜かれて4番だよ」
  「ヒャー、最後の最後に抜かれたんすか。まいったなあー」
  「さっくらい、な ほんでも4位じゃ すげはんで、むねえーはってきな」
  順位を見た瞬間から胸の中にぐっとこみ上げるものがあった。


  タイム差も0.34秒、スキーの前半分の長さで負けたのだ。
  「悔しい。ほんとに悔しいス。」
  タイムの張り出しているところから身動きできずにじっとしていた。


  先輩に見せないように帽子を深くかぶりなおし下を向いて息を飲み込んでいた。
  しかし呼吸は荒くなり、目の前の雪がにじんで見えなくなってきた。
  肩に担いだ、レース用の板を下ろして、背中のザックもいったん下ろした。


  ヘルメットやアウタージャケットが中に入っていたので、ずしりと重かったものがふっと軽くなって、背伸びをしたくなった。
  「うーん、」 両腕を雪のやんだ空に向かって突き上げ、上に向いて顔をそらしていると小さな雪の結晶が何粒か見えた。
  「あー終わった。これで帰れる。」 悔しさがこみ上げてきたところに寿子先輩の弟が声をかけてきた。


  今回のレースにも参加していたので、ゼッケンがジャケットの襟からちょこっと見えていた。
  スキー学校のウエアーを着てうろうろしている話題の弟さんが近づいてきたので、サングラスを外して挨拶した。
  場内アナウンスで、年齢別順位、 1位2位3位がタイム差とともに発表されていた。


  年齢別なので、壮年、成年 そして最後に青年 1部男子の順位を言い始めた。
  1位2位3位までの発表なので、4位の私のゼッケンは聞き取れなかったのだ。
  そのときの 1位は佐伯隆志選手。


  後にナショナルチームで、世界5位の位置まで上り詰めるが、インスブルックの大会で転倒して膝の靭帯を切り、
  選手を引退してデモンストレーターとして活躍中。
  2位春日孝くんも後にデモンストレーターとして東京都のスキー指導員の育成にあたり、ポルシェを乗り回す青年実業家として活躍している。


  3位出口沖彦 学校卒業後に小賀坂スキーのメンバーとしてデモンストレーター認定を受け、生まれ故郷の猪苗代にペンションを立て、
  福島県のジュニア育成に心血をそそいでいたが、2000年11月オーストリアで事故のため死亡した。
  スキー業界のみならず世界が震撼する大事故に遭遇してしまう。


  母校の中学校スキー部の合宿とスキーメーカーが企画した足慣らしツアーでの出来事だったのだ。
  ニュースでも伝えられたが、われわれが良く使うスキー場でのケーブルカー事故に遭遇して、
  動力の無いケーブルカーで火災が起きると言う前代未聞の事故になってしまった。


  我が事のように身体が震える思いをしたのだが、未だこの時は元気な学生であった。
  4位の私も出口君と同じ20歳だった。
  表彰台に乗れるかもしれない期待が大きく膨らみだしていたあとだったので、入賞だと言う気持ちにはならなかった。


  「バーンさ、かちゃくちゃないんで、いっしょ、ぬくまるとこさ、いんべは」 (斜面の状況が更に悪くなっているようだから、
   期待してたろうけどもういいだろう)と、
  弟さんが言い出して、彼が所属しているスキー学校に向かうことになった。
  以前に戦って私よりもタイムが早いと思われる選手はあと二人いた、新潟の佐藤芳也選手と宮城の里吉選手でしたがその選手には
   勝っていたようだ。


  「スキー学校さいって、みなと しゃべって しゃべぬるまに とんじまうよ」
  「さっくらいは、ちょっとのんでけ」
  「このまま帰ってもすることないんで、ちょっと休んでから帰りますんで、お邪魔します。」
  「そしな」

 

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