○居候
寝台特急が上野駅に朝6:15に到着した。
3本のスキーと荷物を担いで、山手線に乗り換え、池袋から東武東上線に乗り換えて下りの準急に乗った。
通勤時間だが、下りは比較的空いていて、荷物を立てかけて、座ることが出来ほっとした。
鶴瀬の駅に降り立ったのは8時少し手前だったので、駅には通勤客でごった返し、通り抜けるにも大変な気の使いようだった。
駅から約10分ほどの道のりだが、荷物の重みが、肩にずしりと食い込み、何度も担ぎ変えなければならなかった。
家に着くと母は出かける支度をしていて、玄関ですれ違うところで、もし母が出かけていたら、家の鍵は持っていなかったので、
玄関の軒先で何時間か待つことになっていただろう、運がよかった。
「いいタイミングね」といってそのままにして母は出かけていった。
「ちょっとでかけてくるわね。」と言い残すと、さっさと駅の方向へ向かっていってしまった。
玄関に荷物を放り出し、荷物も開かずに部屋に戻ってベットに入ったのだ。
スキーレースの疲れよりも荷物の運搬にまいってしまったのだ。
いったん眠ろうと思っていたが、昨夜の寝台特急でゆっくり眠っていたので、眠くない。
このままでもしょうがないので、荷物の整理をしようと荷物を開いた。
洗濯物を洗濯機に突っ込み、ダウンヒルスーツをファンシーケースにぶら下げ、アウタースーツやジャケット類を仕舞った。
ヘルメットもケースに仕舞いゴーグルもカバーをかけて箪笥に入れた。
明日からはスキー学校で、修学旅行の高校生や初心者や初級者を指導することになるのだから、レース用の用品はいらなくなる。
下に降りてゆき台所に入って、冷蔵庫を開けると、中には餃子と春巻きがラップしてあったので、レンジでチンして食べることにした。
ご飯は朝炊かれていたものだろう。まだ暖かい状態だったので、大きなどんぶりによそって、食べ始めた。
テーブルのうえにあったリモコンでテレビを付ける。
なんだか判らないドラマを流していたが、内容を見ているのかなど、どうでもよく何か音が鳴っていないと寂しい感じでいやだったので、
そのままつけっ放しにしておいた。 きれいにたいらげ満腹になったので、玄関に工作台を出してスキーの板の手入れを始めた。
1回しか使わなくてもスキーの板はワックスがはがれ、そのまま使っていると滑走性能が落ちて、滑走感覚にも影響があるのだ。
昼食もとらずにひたすら4本のスキーと格闘していると、午後 2時ごろがたがたと言う音がして、母が帰ってきた。
いきなり玄関で、「やらないでね」といわれていることをしていたのだから、さっそく怒られた。
「ここでやっちゃだめでしょう。すぐに外に出しなさい」 今日出かけたのは、母が 4月から代用教員で新しい小学校に赴任するので、
その学校に面接に出かけてきたということだった。
新しい学校は、駅から近いので通勤が楽だとか、昔の女学校での同級生がいたとか独り言のように話していたが、
聞いているような相槌であいまいな返事をしながら、あらかた終わったスキーを滑走面がくっつかないようにウエスをはさみ固定して、
明日から使う自分専用の車の中に担いでいくのであった。
車にスキー2本をそっと置いた後、玄関に戻りタイルを箒で履いているときに、
2階の両親の部屋からがたがたと荷物を落とすような音がしてきたので覗いてみると、母の机の上に様々な書類の束がうずたかく積み上げられ、
処分する物と懐かしい子供たちの物が散りばめられていたのだ。
整理と言うより思い出探しのようなことをし始めていたので、当分夕飯にはありつけないだろうと思われた。
玄関での作業が終わってテレビを見ていると、母が重いケースを出してくれと何回か部屋に呼ばれ、大きなケースを運びだす手伝いをした。
今まで30年以上教員を続けていたので、卒業生や小学生の資料で1部屋がいっぱいである。
その中には私の小学校時代の物もあるようで、分けていたようだ。
私が小学校の頃は、母とは違う小学校に通っていたのだが、私は同じ小学校でもよかったのだが、
母が移動願いを出してバスで30分ほどのところにある小学校へ通っていたのだ。
今考えれば近くにいると甘えてしまうと言うことだろうと思うが、聞いたことがないので、その頃のことはそのままになっていた。
その頃すんでいたのは、東京の下町で、葛飾の柴又帝釈天に程近い床屋がわが実家である。
床屋を経営していたのは父の弟夫婦で、近所の評判もいい明るい雰囲気のお店であった。
母は離れていると入っても同じ葛飾区の教員をしていた関係で、私の通っている小学校と行事が重なることが多く、
運動会や遠足などは一緒にすごした記憶がない。
昔を思い出すと、学芸会で衣装を作ってもらった記憶が、やけに印象深く覚えているくらいだ。
幼稚園のお迎えや、学校で怪我をして迎えに来てもらったのは叔母さんがほとんどだったと思う。
だから私の育ての親は父の弟の奥さんで、たまには床屋の職人のお姉さんにもお世話になっていたようだが、オムツの交換や、
けんかして近所の子供を泣かしても謝りに行ってくれるのはおばが変わってやってくれていたようだ。
帰宅してから母がもう一度謝りに行くことをしていたようだが、また小学校の運動会などの面倒も見てくれていたのだ。
母は担任を持っていると休めない日が多く、私も寂しさを我慢することに慣れてきていたし、回りにはたくさんの職人さんがいたので、
寂しいと言う気持ちにはならなかったのだ。
またその頃の父親は新しい事業が船出したときだったので、休日返上で仕事に明け暮れ、夜遅く帰宅し、朝早く出勤する生活が続いていたようだ。
私は寝ていて、余りかまってもらったことがないように思われる。
私が中学校に入学したときまで、一緒に旅行や演劇に行ったことは3回しかなかったと思う。
1回は父の会社の社員旅行で、芦ノ湖に連れて行ってもらったこと。
芦ノ湖の遊覧船の上で、蜂に刺されておお泣きしたこと。
2回目の旅行は仙台の七夕に連れて行ってもらったこと。
その時も鼻におできが出来て、高熱で2日の間、宿で寝ていたこと。
この 2回がはっきりした記憶である。
はっきりはしていないが、思い出すといい思い出では少ない気がする。
3回目は今なくなってしまったが、銀座のテアトル東京という映画館で、101匹ワンちゃんを見た記憶がある。
また、幼稚園の遠足では、谷津遊園地へ行ったと思うが、電車のドアーに手を引き込まれ、擦りむいてやっぱり泣いていた事も思い出すし、
上野動物園に行った時もモノレールに乗りたいということで、待っていたときにお漏らししてしまったことが思い出される。
とにかく親に迷惑かけどうしで、いい子ではなかったと思う。
父や母には大変申し訳ないが、親子での旅行はびくびくしていた記憶が強いのだ。
スキーの板もしまい玄関の作業台も片付けてテレビを見ていると、思いがけず早い時間に父が帰宅したので、今回の国体は4位だったと報告した。
表彰状と記念品を居間のテーブルの上に放り出して、あいまいな返事をして話題を変えた。
もう少しがんばりたいと言うことを告げて援助をお願いしたのだ。
父が会社から帰宅して風呂にお湯を入れに行った。
お風呂は父の役目のようだ、何ヶ月もスキー場に行っていて家のことは全く気にかけていなかったので、段取りがわからないようになっていた。
片付けが終わったのか、やっと母が夕食の準備を始めた。
遅い夕飯の時間になったときこれからの予定を両親に話し始めた。
翌日には菅平に向かうことになるので、またしばらく留守になるということを告げ、来年はオリンピック選考会の年なので、
もう一年だけ資金援助をしてもらえないかと言うことをお願いした。
すぐその場では返事はもらえなかったが、どのくらいかかるか、試算しなさいと言われたので、今年の日程と同じ金額だろうと思うので、
スケジュール表を出して、計算し始めた。 2週間後には帰ってくると伝えると、いつものことなので、あまり心配したそぶりも見せず、
「気をつけていってらっしゃい」という声を聞き流すように食器を片付けて部屋に戻った。
夕食後はなんとなくすることもないので、9時には部屋に入りベットでそのまま眠ってしまったようだ。
翌日は朝4時頃に目が覚めてしまったので、仕方なくごそごそと荷物を運び出して、車に詰め込んでいた。
「こんなに早く出かけなくてもいいのに」と言われながら、物音で起こしてしまった母が眠い目をシバつかせながら玄関で見送ってくれたのだ。
私が出かけるときには必ず玄関まで出てきて、無用心だからといって出たあとに鍵を閉めることを気にかけているようだった。
自分の車を運転して、関越自動車道路を北に向けて走りだした。
この車も父親にお願いして、父の会社の中古車を安く卸してもらったのだ。
トヨタコロナのバンである。
スキーにしか使わないので、室内の天井にスキーの板を格納できるように改造し、丁度スキーの長さと天井の長さが同じだったので、
サンバイザーにスキーのテールを挟み裏返しにするとリアゲートのところにトップの反り返しが収まるので、
ビンディングのところを天井からつるとぴったり収まるのだ。
その代わりどんなにまぶしくても運転席や助手席のバイザーは下ろせなくなってしまった。
更に後部座席を取り外し、荷台を広くして荷物を放り投げても詰めるように改造した。
つい3日前のことなのに全く昔のことのように思われて、国体が終わったことなど全く忘れていた。
あの悔しさはどこへ行ったのだろう。
カセットを入れて荒井由実 ユーミンの14番目の月というレコードからダビングした曲を鼻歌交じりに口ずさみながら緊張感のない移動である。
白々と東の空が明るくなり始めた頃、佐久インターまで到着した。
ここからは一般道を走ってゆくのだ。
「後1時間で菅平だぞっと」 菅平での生活は旅館の居候と言うことで、アルバイトの男子学生三人が同じ部屋での生活をしている。
居候の仕事は朝6時に起きて朝食の準備から仕事を始め、お客さんが食事を終えると片付けと洗い物をして、スキー学校に出かける。
朝9:00にはスキー学校に集合して、今日のレッスンの配置に散らばってゆき、12時までは午前のレッスンが入っている。
午後は13:30からレッスンが始まり3:30にレッスン終了である。
その後は各自 自己研修という形で思い思いに滑っている。
昼食はお弁当を作るのだが、朝の残り物を自分で詰め込み昼休みにスキー学校の2階の休憩室で、皆とわいわい食べるのだ。
4:30にはリフトも終了しそれに合わせて、宿に帰宅することになる。
宿に戻ってからはお客さんの夕食の準備から片付けを行ない、
更に私の人懐っこさを宿のご主人が大いに買ってくれて夜のカウンターを任せてくれていたので、
夜のふけるまで、お客さんとスキー談義にうつつを抜かすようになっていたのだ。
朝食の片付けが終了してからスキー学校のアシスタントとしてスキー指導に当たるわけだが、
上級者・中級者・初心者指導と幅が広い技術層にわたって指導していたし、
修学旅行の指導も担当するのが主な仕事で、低速でスキーをすることがそのほとんどだったので、今でもスキーの低速種目には
かなりな自信がある。
1日のレッスン料も微々たる金額であるが、スキーが思う存分に出来る環境が学生たちには大変な魅力となっていて、
アシスタント希望者が毎年断りきれないほど応募してくるのだ。
もうじき菅平スキー場の入り口に着くとき道路にびっしり雪がつきタイヤにチェーンを巻かないと上れないと思われたので、
ちょっと広いところに車をとめた。
タイヤチェーンを出して巻いていると、何台か顔を知ったスキー学校のアシスタントが横を通り過ぎていった。
下の上田と言う町から毎日通っている人が何人もいるのだ。
さあこれからまたがんばろうと言う気持ちに変わっていくのだった。